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「知れば恐ろしい 日本人の風習」 [Book - Public]

 日本人にとって馴染み深い風習やタブー、季節の行事、さらには子供の遊びや昔話のルーツを検証し、我々の先祖がそれらに込めた「”恐怖”に対する智慧」を探っていく。

◎「知れば恐ろしい 日本人の風習 
  :『夜に口笛を吹いてはならない』の本当の理由とは」
         千葉公慈著(河出文庫刊)

◆内容紹介
なぜ、夜に爪を切ると「親の死に目にあえない」と言われるのか?「孟蘭盆会(お盆)」の起源は地獄での“逆さ吊り”の刑にあった―日本のしきたりや年中行事、わらべ唄の昔話には、どこか不気味なものや、ルーツに恐ろしい逸話が隠されているものが多い。それはいったいなぜなのか。風習に潜む恐怖の謎解きをしながら日本人のメンタリティを読み解く。 

 日本で昔からあるしきたりや習俗、季節の祭事、さらにはおなじみの昔話等々の起源を解説している。

 第1章は「しきたり・タブー」
 タイトルにある「夜に口笛を吹いてはならない」の理由について、悪霊や妖怪を呼び寄せる、蛇を呼び寄せる、人攫いが来る、親を早死にさせる等々の俗説や迷信をあげた上で、口笛がかつて「嘯(うそぶ)き」と表現されていたことから、神や精霊を招く力がある=神聖な行為だからこそ、濫りに行ってはならぬ戒めであった、とする。さらに曹洞宗の僧侶という著者の立場から、仏教の発遣供養(魂抜き)における作法の影響もあるのではないか、と推測する。 
「夜、爪を切ると親の死に目に会えない」は、戦国時代の城の不寝番が親が亡くなっても持ち場を離れられない重責であることから、不寝番即ち”夜詰め”と夜爪の語呂合わせから来た―という俗説、さらに日本人が古来から爪や髪を神聖視してきたことを「日本書紀」やその他の記述から紹介している。

 第2章は「年中行事」。年始の「獅子舞」に始まり「雛祭り」「花見」「七夕」「酉の市」等々を経て、暮れの「煤払い」まで、 一年の22の行事を取り上げている。「七草粥」や「端午の節句」、「盂蘭盆会(お盆)」といった馴染み深いものから、「事八日(2月と12月の8日)」「河童祭り」「重陽の節句(9月9日)」といった耳慣れない、あまりピンとこないものまであるが、それら悉くが日本人の死生観や信仰心、そして農耕文化と深く関わっていることに改めて気付かされる。
 ちなみに本書では「お彼岸」の行事の起源が、桓武天皇の弟で、政争に敗れ幽閉の末に憤死した早良親王の霊を鎮めるための行事だった、とある。その他「盂蘭盆会」や「節分」なども、昔自分が学んだものとは異なる点もあるが、その辺りは諸説あるうちの一つとして、著者の立場で取り上げているものなんだろう、と。

 第3章は「子供の遊び・わらべ歌」、第4章「昔話」を扱っている。
 子供の頃やった記憶のある「えんがちょ」のしぐさが、平家物語の絵巻にも描かれているというのは面白いが、この仕草自体の明確な起源は未だ不明とのこと。と言うより、これらの遊びやわらべ歌自体、様々な諸説、異説、解釈が存在するようで、はっきりしているのは「起源自体が明確でない」ということのようだ。
「昔話」では「かちかち山」、本邦に於ける人魚伝説「八百比丘尼」、日本のシンデレラともいうべき「米福粟福」、そして松谷みよ子の名作童話『龍の子太郎』の元となった民話「小泉小太郎」を紹介している。 

「知れば恐ろしい」というのは、今はどうということのない習わしであっても、かつては死やそれに付随するもの、それに対する当時の日本人の意識―即ち怖れ、あるいは畏れ―が反映されているということなのだが、今よりもはるかに死が身近であった時代では、むしろ当然のこととも考えられる。

 ところで、近年は昔話等から残酷な要素、死に関する事柄を一様に「子供の教育上よろしくない」と忌避し遠ざける流れが特に顕著なようだ。
 例えば昔話「かちかち山」にしても、かつては爺さんに捕えられたタヌキが婆さんを騙して縄を解かせた挙句、逆に杵で搗き殺してその肉を鍋に入れ(!)、婆さんに化けて何食わぬ顔でそれを爺さんに食べさせ(!!)、「爺さんが喰ったのはタヌキ汁じゃなくババア汁、流しの下の骨を見ろ~」と嘲笑いながら逃げていく―という、悪趣味ホラーもかくやの場面があったはず(自分が読んだのはタヌキが婆さんを殺して逃げるものだった)だが、近年では婆さんは殺されずケガで済み、懲らしめられたタヌキが反省し謝って大団円……なんてかなりヌルいマイルドな内容に改変されているのだとか。
 昔話には勧善懲悪、善因善果悪因悪果、社会の厳しさやモラルというものを、お話というフォーマットで教育するという機能も有していたと考えれば、子供は「ルールを破り悪事を働けば、恐ろしい結果を招く」ということを昔話から学び、残酷譚によって刷り込まれた”恐怖”が、その後の自らの行為のブレーキとしても働いていたのではないかと思う。

 かつては三世代同居の家も多く、年寄りが自宅で家族に看取られて死ぬ、つまり子供といえど日常の中で「死」というものに直面することも、数十年前ですらそう珍しくないことだった。
 現代でもTVやネット上のニュースで毎日のように様々な「死」が報じられてはいるが、それは媒体を介してのものであって、子供心にそれを実感することはそう多くないのではないか。大半の人間は病院で死を迎え、身内でなければそれに立ち会う機会もほとんどない。
 子供に残酷な話をどんどん聞かせて教育しろ、坊主による地獄極楽の説話を聞かせろ、なんて極論を言うつもりは毛頭ないけれども、大人の思い込みによる毒抜きによってそういったものを見えなくさせてしまうことは、幼い頃から死というものへの畏れ(恐れでもあるが)、ひいては命の脆さ、尊さを学ぶ機会を奪ってしまっているんじゃないか、と思わざるを得ない。 

 ーMemento mori(死を記憶せよ)
 この警句は、己の慢心や油断への戒めであると同時に、他者の生命の重さを思え、という意味も含まれているのではないかと勝手ながら思うのだ。 

 昨今はこれら年中行事の大半は様々な商業主義、あるいは胡散臭いスピリチュアル系のビジネスと結び付いて、由来も意味もへったくれも失われつつあるようだが……。  

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