SSブログ

「蠱惑の本 《異形コレクション50》」 [Book - Horror/SF/Mystery]

《異形コレクション》復活第2弾。テーマはずばり『本』。

「蠱惑の本≪異形コレクション50≫」監修)井上雅彦(光文社文庫刊)

◆内容紹介(裏表紙から)
 祈念すべき五十冊目を〈本〉を愛する皆様に送ります。
 貴方の本棚に、どうか、もう一冊、闇色の本をお迎えください。
 本は、常に私たちの身近にあって、あらゆる「世界」を閉じ込めた存在でした。本を開きさえすれば、脳裏に飛び込んでくる「未知」の世界。
 そこには人生を変えてしまうような出会いもある筈です。
 記念すべき五十巻目の《異形コレクション》を〈本〉に関わるすべての人々に捧げます。
                                   (編集序文より)


IMAG1995_20210129004647.jpg 昨年11月、9年の眠りから目を覚ました《異形コレクション》。復活第1弾である『ダーク・ロマンス』に続き、12月には第2弾である本書が刊行された。通算第50巻という記念の1冊でもある今回のテーマは『本』。編者序文によればこのテーマは創刊当時から候補となっていたテーマなのだそうで。
 本―書物テーマの怪奇幻想……《異形》に収録されるような作品といっても、いわゆる曰く付きの本やクトゥルー神話のガジェットにあるような魔導書とか、稀覯本を手に入れたら怪物が現われたとか、それこそM.R.ジェィムズの作品にあるようなものは殆ど無く(そりゃそうか)、「人間が本になる」(ブラッドベリ『華氏451度』みたいな)ものが印象に残る。〈本〉は必ずしも「文字が書かれた(印字された)紙が束ねられたもの」とは限らないということか。思い起こしてみれば、クライヴ・バーカーの傑作短篇集(無論これも序文で言及されている)『血の本』シリーズも、個々の作品は独立した短篇ではあるものの、それらは全てある男の身体に刻まれ血で綴られたもの―という設定の枠物語があったわけで。
 また、故人あるいは終活として蔵書を処分するという(住宅問題も含め)設定が用いられた作品も複数あって、これはいかにも現代―それも身近で切実な問題よなぁ、と。

 収録作15篇。以下簡単な感想を。

蔵書の中の(大崎梢)
 亡くなった祖父の蔵書引き取りに立ち会うことになった大学生の主人公。予定時間の前に一人の老婦人が「祖父に貸していた本を返してもらいたい」と訪ねて来る。彼は婦人と書庫になった離れで探し始めるが。
―「本には人の気持ちや感情が宿りやすい」(本文より)。それが時に異形となって顕現するということか。余談だがこういう〈離れ〉を書庫にするというのは本好きの夢だろうけれど、書庫で遭難しそうになるのは“悪夢”だろうなぁ。
砂漠の龍(宇佐美まこと)
 匈奴の騎馬民族の襲撃から辛くも助け出された少年は、涸れ谷で死んでいる馬賊たちを見つける。彼を救った行商人は「砂漠の龍が現われた」と語る―。
―中世のアジアが舞台のファンタジーと思いきや、そこから一気に物語は現在の日本が舞台に変り、そしてさらにダークな展開を帯びていき、クライマックスで序盤のストーリーと結びつく。年寄りが亡くなった家に(訳アリな)若者が移住してくるという展開に何となく既読感を覚えたのだが、昨夏に読んだ「小説現代」9月号の『氷室』も同じ著者だった。
オモイツヅラ(井上雅彦)
 ヴィクトリア朝期のロンドン、主人公はモンタギュー街にある若い女性精神科医の診療所で働くことになった。ただし助手ではなく、書庫を管理する司書として。
―著者の過去作をはじめ舞台となる時代の様々なガジェット、さらには日本の御伽噺まで詰まった、まさに遊び心たっぷりの一篇。書いていて楽しかったんだろうな、と。
静寂の書籍(木犀あこ)
 老齢の常連客の蔵書を引き取ることとなった古書店主。会話の中で客が言及したある本に強い興味を覚えるが、老人は「それだけは譲らないし見せる気もない」と断言する。事情により追い込まれていた店主は……。
―タイトルにもなっている『静寂の書籍』、老人が頑なに隠していたその本がいかなるものだったのか。それが明らかになる件はぞわっとさせられる。視覚と聴覚の違いはあれ、D.マレルの某傑作中編を思い出した。
蝋燭と砂丘(倉阪鬼一郎)
 ある在野の俳人から毎年贈られてくる個人句集。「蝋燭と砂丘」の題がついた今年の句集は終末感や幸薄感に満ちた、これまでと異なる不気味さを帯びていた。
―近年では時代物や歌人/俳人としての活躍が顕著な著者。『異形―』初期に倉阪作品に出会った者としては、この人の作品は「鋭利な残酷さを帯びた怪奇恐怖譚」なのだが。参加作家陣に名前を見つけて期待してた分、個人的には少々物足りなかったかも。
雷のごとく恐ろしきツァーリの製本工房(間瀬純子)
 イヴァン雷帝下のロシア。製本職人としてデンマークから招かれたハンスは、工房を訪れたツァーリ一行に聖書の活版印刷の様子を見せることとなった―。
―闇の出版史の一挿話ってとこか。初読した時はなんでこういう展開なのか読み取れず。
書骸(柴田勝家)
「本の剥製を作ること」を趣味とした男。彼を愛し続けた妻が語る話。
―冒頭の一行で一気に引きずり込まれる読者も相当多いだろうが、自分は(ん、ちょっとニガテな方面かも)と身構えてしまった。奇想、奇譚としか言いようがないのだが、後半の展開、さらに語り手である妻も「信頼のできない語り手」であると考えると……。
本の背骨が最後に残る(斜線堂有紀)
 人が「本」となった世界。誤植のある「本」は『版重ね』と呼ばれる議論を「本」同士が行い、敗れた方は焚書となる。
―設定こそファンタジーではあるが、こじつけや詭弁によって「物語」が当初の姿から変容していくことは現実に起こっている話でもあって。
河原にて(坂木司)
 ベビーカーを押して散歩をしていた私は、河原で焚火をしている男を見かける。男が本を燃やしているのに気付いた私は、ベビーカーに入れていた育児書を燃やしていいかと男に尋ねるが―。
―育児の最適解を求めて、膨大な情報に翻弄され倦み疲れてしまう……子育て中の女性にとっては切実な問題なのだろう。終始軽妙なトーンでどこが異形?と思っていると「おっ」となるが、ラストすらも軽やか。
ブックマン―ありえざる奇書の年代記(真藤順丈)
 奇書蒐集家であった母方の叔父が「ぼく」に託した本とは、母(ぼくにとっては祖母)を中心に一家の奇妙かつ壮大な歴史が綴られた「叔父自身」だった。
―「人を読み、さらに書く」という異能力、これってヘブンズ・ドアー?と思ってしまうのはニワカ過ぎるか。でも人間とはある面、記憶やら言葉やら種々雑多膨大な情報で出来ているものとも言えなくもないわけで。ラストで明かされる事実に素直に驚かされる。
2020(三上延)
「本の島」として注目を集め始めた文之島は、2年前に亡くなった人気女流作家の出身地であり、終の棲家でもあった。この島に新しい司書として訪れた私は、かつてはその作家を師と仰ぎ親交もあったのだが。
―大長編のベストセラー・シリーズの知られざる秘密、ということか。一族の、そして選ばれた者の宿命とは、言い換えれば呪いと言えなくもない。タイトルが意味するのが年号だけでないという仕掛けが面白い。
ふじみのちょんぼ(平山夢明)
 ルール無用の殺し合いのような格闘ショーで日銭を稼ぐちょんぼは、どんな重傷すら数日で快復してしまう不死身の男。彼はある〈本〉の世界に入ることで傷を癒やしていたのだった。昔施設で妹のように可愛がっていたサヲが、ある日ちょんぼを訪ねて来る。
―言うなれば平山流“あしたのジョー”か。「貧乏でどうしようもないけどみんな妙に元気」な人間喜劇を書きたくなった―のが近年の著者らしいが、かつての乾いた狂気に代わりウエットなおかしさと物悲しさが覆う分、ラストの救済の残酷さも際立つ。最後のシーンもあの作品へのオマージュかと。
外法経(朝松健)
 侍所頭人の多賀高忠は、洛中で続けて起こる怪事に頭を悩ませていた。思案の末一休禅師に相談するため庵を訪ねると、一休は不在で自分宛の手紙が用意され、そこには「目の前にいる侍女の森(しん)に子細を話し、怪事のあった場所に行ってみよ」と書かれてあった。
―老齢の一休禅師と盲目の侍女森のコンビ。NLQ Vol.19まで連載された《一休どくろ譚》でお馴染みだったが、異形コレクションにもようやく復帰で喜ばしい―と言いたいところだが、今作では禅師は手紙のなかでのみの出演。というより今作は本書と同時期に刊行の長編「血と炎の京 私本・応仁の乱」と《一休どくろ譚》との世界を繋ぐ前日譚なのだとか。最後に判明する今作の〈魔〉の正体、自力ではわからず調べてみてようやく理解した次第。
恐 またはこわい話の巻末解説(澤村伊智)
「恐」というタイトルのホラー傑作選の巻末解説。編者によって収録21作品の解題等が語られるが、その隙間から徐々に不穏なものが漂いはじめ―。
―架空のアンソロジーの巻末解説という体裁。各作品のタイトルも著者名もすべて創作だが、それと似たような、あるいはネタ元になっているような実際の作品を考えてみるのも一興かも。前巻『ダーク・ロマンス』収録の「禍 または2010年代の恐怖映画」といい、この著者は紙面から立ち上るような禍々しさを描くのが本当に巧い。
 監修者の言葉にもあるように、澤村氏にはぜひ一度ホラー・アンソロジーを編んでみてほしい。
魁星(北原尚彦)
 ある日、私(北原尚彦)は横田順彌氏とのいつもながらの雑談の折、耳慣れぬ神社について尋ねられる。数年後、あることをきっかけに横田氏はその神社が「魁星神社」といい、古本に関するご利益があることを語るのだが―。
―個人的に横田順彌にほとんど思い入れはないのだが(といっても異形コレクション初期の押川春浪シリーズは独特の雰囲気で楽しんだ記憶はある)、故人との交流の思い出を虚実入り交えて語った本作は切なくもありまた面白い。著者が今一度“異形ファン”に向けて発表した弔辞なのかなとも感じたり。


 今にして思うと、前巻は復活を告げる華々しさや悦び(禍々しさも多分にあり)に彩られていた一方で、そのテーマの意味合いの広範さ故に、テーマ・アンソロジーとしての統一感みたいなものは若干薄まっているような気がしないでもない。その意味で今巻は〈本〉というテーマに沿った、かつての《異形コレクション》の雰囲気が帰ってきたようにも感じられた。

 次巻がいつ頃なのか、テーマは何になるのかはまだ不明だが、次も愉しみなことは間違いない。

banner_03.gifにほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ ブログランキングに参加しています。
   ↑よろしければ ↑1クリック お願いいたします。

nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。